「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」(3節)

それは、「青草・・」と「死の陰の谷・・」の間にある「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」という言葉です。私達はこの意味を考えなければなりません。「正しい道に導かれる」を、キリスト者として最後に大事なことがあると語ったフィリピ書4:8の言葉と比べてみたいと思います。「終わりに兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。

フィリピ書では丁寧に、おおよそ正しいこと、誰が見ても正しい、誰もが持っている正しさ、人間的な正しさ、人間的な真理、相対的な、きわめてありふれた、しかし誰でもが知っているまこと、正しさを言っています。それは、私共人間が考え、行なっている正しさであり、知っている真理であると理解できます。パウロは、「私共は日常、これを大事にしなければならない。」と言っています。それに対して詩編23編では、「正しい道」と、ひと言で言っています。「正しい道」と言われているのは、キリストが知っている真理、キリストが持っておられる真理、キリストが説いておられる正しさ、真理です。「相対的」に対して「絶対的」といえる、その真理が私共に示されます。

私共が考えている日常的な正しさではない「絶対的な真理」がキリストによって示される。それによって「青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」ことになるのです。一人一人がキリストによって正しい道に導かれ、憩いの水のほとりに連れていかれるのです。おおよそ正しいのではなくて、絶対的な真理、正義の中の正義、キリ ストが示される真理、キリストというお方・神の子というお方において実現される真理、私達を動かして下さる真理、私達に対してその真理に目を開かせて下さる、私達に対して関係する真理。これが聖書の語る真理であり正義である、その道に私達を導いて下さるのです。
  
もう少し例をあげるならば、宗教改革マルティン・ルターが「神の義」によって宗教改革者として立ち上がることが出来ましたが、その義も又、抽象的な義ではなく、「義に目覚めさせる、義とする働きをもった義」でした。それがここで言われている「正しい道」です。「正しい道」があるわけではなくて、キリストにおいて、キリストが持っており、キリストが私達に与えて下さる義、キリストが私達に働いて下さる、私達を動かして下さるもの。それが正しい道であり真理であるといえます。ですから「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる」と言えるのです。