「人間にできることではないが、神にはできる。」(27節)

「金持ちの男」は、弱い(貧しい)人を愛するという神様の御性質に倣って、神の御子に従うという内容が、自分の欲求に合わず立ち去りました。

エス様は、愛情を懸けたこの「金持ちの男」が離れていく様を見て、富に対する人間の執着が、神の国に入ることを阻止していると指摘されました。富だけでなく、人をこの世に縛るのは、安易な愛情、名声、簡単に手に入る楽しみなどが考えられます。その未練を捨てることの難しさは、「ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」ほどです。「金持ちの男」が求める、この世に合わせた基準や、悔い改めのないまま、神の国に入ることは絶対に無理であり、「人間にできること」ではありません。

悔い改めは、自分中心の生き方から神様中心に生きる生き方に方向転換することです。

この世の執着を捨てることは「出来ない」と考えている人間でも、悔い改めをもって真剣に救いを願うならば、「何でもお出来になる神様」は、どのような者でも「お救いになることが出来ます」。

「世界の主権は神様にある」ことを再確認し、そのような神様に、私達は眼を懸けていただいている、その恵みに感謝して歩みたいと思います。(後略)。