「何の権威で」「誰が権威を与えた?」

エス様は宣教の初めから、権威ある者として他のユダヤ教指導者達とは違っており、ファリサイ派の人々はその凄さを悟り、自分達が生き残るには、もはやイエス様を亡き者にすべきであると動き始めました(3章)。それまで自分達の教えをありがたく受けていた一般民衆が、自分達よりもイエス様の教えや癒しを見聞きし、その力に感動して受け入れる様子が、何よりもファリサイ派の人々を嫉妬させたことでしょう。

 「宮清め」の翌日、イエス様が神殿の境内を歩いておられると、ユダヤ教指導者たちが問いました。「何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えているのか」。「このようなこと」とは、「宮清め」の行為自体とその後の神殿での教える行為、さらに大きくとらえると、今迄の、イエス様の宣教活動全般、更にはユダヤ教批判のことを指すと思われます。「何の権威で」「誰が権威を与えたのか」との問いは、「祭司階級でもなく、職人階級出身の『イエス』には、神に選ばれて高い身分にある自分達を超えて、現状を批判する権利はない」との非難が込められています。