「捨てた石が隅の親石となる」

たとえでは、農夫達は送られてくる主人のしもべを殺してしまいます。主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと思い、最後に息子を送ります。これこそ父なる神様が人間を救いたいという愛ゆえに、この世に送った御子イエス様のことです。ところが自分達の利益に目が眩んだ農夫達によって息子も殺されるという描写は、イエス様がユダヤ教指導者達の働きかけによって十字架にかけられる受難の道のりを示しています。主人の忍耐も息子の死迄で、そこから徹底した裁きが始まります(9節)。  

エス様は詩編118編を引用し、「捨てられた石が隅の親石となる」という神様の業を語られます。それは、ユダヤ教指導者達がイエス様を排除しても、神様は排除されたイエス様をメシアとして用いられるということです。神様の業は人間には理解しがたく、不思議としか言いようがないと詩編は告白します。私達が信じるイエス様は、人によって捨てられ、神様によってメシアとされた「神の御子・イエス様」です。