「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

この意味は、「穀物の種は、豊かな実を結ぶ為には、死ななければならない。一粒の種は土に落とされ、土に埋もれなければ、いつまでもただ一粒のままでとどまっている。けれども、地中に埋もれて古い命を失うならば、やがてその殻を破って、多くの新しい命が生れ出る」ということです。そして、御自分を一粒の麦に譬えて、イエス様が地上での救いの業を果たす為には、死ななければならないことを意味しています。

  

この世的に考えるならば、「イエス様に外国人が会いに来た」のですから、これから新しい分野での伝道が始まる!と考えられます。しかし、イエス様は、いよいよ広く全世界の人々に神様の救いを届ける為に、御自分の命を、神様の祭壇に「あがない」として献げる「時」が来たと宣言されました。旧約時代の、「罪」のつぐないとして献げられた和解の供え物「いけにえ」は、新約時代「イエス様の一回限りの十字架の血潮」にとって代わることになりました。この出来事によって全ての人の前に「神様の赦しと救いの道」が開かれたのです。イエス様に会いたいというギリシャ人に与えられた本当の返事は、これから十字架に架かるイエス様を示し、そのイエス様につながり、苦難に従うことでした。そして、従う者にはイエス様も共にいて、大切にされることを約束されたのです。