罪を赦して義とする

ルターは、ゲッセマネでキリストが、「死ぬばかりに悲しい」(マタイ26:38)と、苦しみもだえて祈られた(ルカ22:44)祈りの中で、キリストは、私達が不条理だと思っていることを、私達に代わって涙を流されていると、言いました。人間の無理解、人間の苦しみを、キリストがゲッセマネで代わって下さっている。まさにここに「キリストが私達に代わる」ということの、ルターの、非常に深い理解がそこにあるように思います。神は、キリストを犠牲にすることで、人々の罪を赦して義とする、「義と認める」ことをなさいました。「義と認める」ということで、宗教改革者達が言った大切なことは、私共が「義」となって認められるわけではありません。私共が義しい(ただしい)と認められるということは、キリストが犠牲となっておられるわけですから、そのキリストの義を通してしか認められない。(キリストは「唯一の、救いを必要としない義人」であり、キリスト以外、神から義と認められる人は誰もいない)。キリストを信じることによって「義」が与えられる。「義」が私共のものになる。といっても私共が、キリストと同じように100パーセント「義」となっているわけではない。そのことを常に、改めて、聖霊の助けによって自覚する。御言葉によって自覚する・・。これが、私共ではないかと思います。「義と認められる」という「義」は、キリストがもっておられる「義」のことです。
 このことを、「神の愛」の関連でみてみたいと思います。