神の愛・・「キリストが十字架につけられた」

今朝、招きの言葉「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ福音書9:13)を読んでいただきましたが、この言葉も重要なキリストにおける「神の愛」の表現だと思います。その神の愛について、学んでみたいと思います。

1518年、ハイデルベルク(ドイツ)に於いてルターは「神の愛と人の愛」について発題しました。神の愛は「アガペイ」、人の愛は「エロース」です。ルターは、「人の愛」は 人を外から見て起こる(生じる)ものであると語りました。たとえば、相手が語る思想や宗教、考え方、容貌、立ち居振る舞い、趣味等を見て相手を好きになったり愛するようになるのであり、相手を愛する愛は自分にとって好ましく、自分にとってプラスであるという「相対的な(比較できる)」愛であると語りました。相対的な愛ですから、更にもっと良い人が出てくれば、そちらを愛するということになります。
それに比べて「神の愛」は、見て生じたり、感じて生じる、あるいは判断して愛する愛ではありません。神は罪人を招く。神の愛は、悪人を良い人に変える愛であり、罪人を赦す愛であり、「人の愛」とは180度違います。この愛は、「犠牲愛」「贖罪愛」と言われたりしています。人間は、自分にとってプラスになる人を愛しますが、神の愛は、罪人・悪人を愛する。罪人を変えていく。そういう形で神の愛は起こる。これが「罪人を招く」というキリストの言葉に表れています。神の愛はキリストにおいて具体化されています。大事な事柄は、キリストが、それを具体化して語り行ったわけですが、その行いの中に、キリストご自身が十字架につけられる。そういう手続き、そういう贖い(あがない)、つぐないの業(わざ)をキリストご自身がなさった。そういうふうに父なる神は、キリストを用いられたということです。これは大変なことです。