ルターの主張

討論の中で、ルターは、「人は、信仰のみによって罪が赦される。信仰は、神の恵みによって与えられる。『誰も、聖霊によらなければ、信じることは出来ない』(第一コリント12:3)」と語りました。
「信仰義認」とは、キリストを信じ、キリストに信頼することによってのみ救われる。すなわち、キリストのゆえに罪が赦されて、神によって義しい(ただしい)と認められることです。これが、宗教改革者達の共通の旗じるしとなり、拠り所となりました。

ロマ書3:28に、「神は、・・イエスを信じる者を義となさる」とあります。ルターもツヴィングリもカルヴァンも、宗教改革者達は、共に、「信仰によって義とされる」(信仰によって救われる)と言ったわけですが、それは自分で発見したのではなく、聖書に帰り、聖書を学んで、そのことに達したのです。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ロマ10:17)とあるように、聖書の御言葉を聞いて信仰に気付かされる、信仰を呼び起こされるということです。「信仰によって義とされる」ということは、私達の罪が赦されて義とされること。その為に神は、御子キリストを世界にお遣わしになって、キリストを十字架につけて犠牲にされる、それによって、その償いによって、私共の罪を赦して義とする、という手続きをとられたわけです。何で神様はそのようなことをなさったのか、私共にはなかなかわかりません。そこで今日は、神は、なぜそのようなプロセスを経て、そのことをなさったのか、そのことについて聖書から学びたいと思います。同時に、そのことについてルターが語っていることがらを、思い起こしてみたいと思います。