神の民と共に虐待される道を選ぶ

今朝は特に、二番目の、モーセが「信仰によって」王女の息子として生きるのではなく、ヘブライ人として生きる道を選んだことに焦点をあてて学びたいと思います。モーセは、富、権力、名声というこの世で価値あるものとされていたものを捨て、自分の同胞と共に生きる道=「唯一の神を信じる神の民」として生きる道=虐待される道を選びました。その理由を聖書は、「キリストのゆえに受けるあざけりを、エジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです」(26節−)と伝えます。なぜなら、この世の価値観で生きることは、何も残らず、何の報いもないことを知ったからです。この世の幸せは過ぎゆくものであり、自分を楽しませる罪ある生き方は、最後は死で終ります。モーセが選んだ道は苦難の多い道でしたが、しかしその道の向こうには、神様が下さる報いが約束されていました。神様から与えられる報いは、この世のものとは違い、目に見えない世界に属するものです。それは、神様が直接支配される神の国に入ることを意味します。伝道者パウロは、ロマ書の中で、「現在の苦しみは、将来私達に現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと思う」と言っています。