この世では

 ある人は苦しい現実から逃げ出す為に麻薬をしたり賭博やお酒におぼれます。アルコール中毒になった人達に、健康に悪いからやめるように言っても、彼らはアルコールがいかに悪いのか、体全体でそれを感じて知っています。それにもかかわらず飲まなくてはいられない。飲むしかない、そのみじめな現実があります。アルコールは辛い気持ちを安定させマヒさせ、偽りの幸せを与えるからです。
 私は新宿で短い期間、開拓伝道をしました。大抵の方はパチンコに走りお酒を飲み、中に麻薬をする人達もいました。1時、2時になると電話が鳴ります。お酒で舌が回らないのに1時間も2時間も身の上話をします。教会に来ると涙を流しながら讃美をし一生懸命祈ります。しかし世の中に向かって行くと、めちゃくちゃな生活に又流れていくのです。「そんなに飲んではだめでしょう。」「先生私はお酒でも飲まなければ生きていけません。すべてを忘れることが出来るなら何でもいいです。」私がこの人達に、「あなた達は悪い。神様の御心にかなっていない。」と言ったら多分皆逃げていったと思います。この世で傷だらけになって行き場を失い、人間として無視され軽蔑され、明日もわからなく生きるこの人達の為に、せめて教会はオアシスのような所になって欲しい、教会では人間らしい扱いをされる。牧師が私のいうことを聞いてくれる。恥ずかしい所を見せても受け入れてくれる。・・どうかそのようになれば良いという気持ちはありました。
 ある人は、若い時に家庭も子供も捨て、自分勝手に外で楽しみばかり求めてきました。年を取り日本に来たが子供達に連絡も出来ない、安定して生きている子供達に「自分が親だ」と言えない苦しみ、又、母親の再婚相手に、中学生になった自分の体を触られた。お母さんに言ったらお母さんは返って怒った。それが心の底に深くありました。日本に来て「その男よりもお母さんを赦すことが出来ない!」と、この世の中には私達人間が癒すことが出来ない深い深い傷を持った人がいるのです。このような人達が行く所はどこか。教会です。教会がその人達の行き場にならなければ教会は教会ではないのです。「あなた達が互いに愛し合うことによって、私の弟子であることを人々は知るだろう」(ヨハネ13:35)。教会だけがお互いを愛し合い、赦し合う。汚いものがあってもそれを吐き出せる所。受け入れてくれる所。勿論、知恵が必要であり方法的な面も問われますが本質的に、教会に行くと離れたくない、教会に留まりたい、仲間がいる、それが教会なのです。