ノアのたとえ

 ノアの時代、地上で人々は神様の前で堕落し、不法に満ちていました(創世記6:11)。それゆえに地上および人々は洪水によって滅ぼされました。なぜノアは助けられたのでしょうか。聖書はこう伝えています。「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(同9節)。更にヘブル書11章にノアついての記述があります。「信仰によってノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けた時、恐れかしこみながら、自分の家族を救う為に箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(7節)。洪水が起こるその日まで、人々は飲み食いし、めとったり嫁いだりしていたと聖書にあります。聖書は日常生活にのみ心を奪われている人々の危険性を語ります。ノアのたとえを通して学ぶべきことは、洪水を境に救われる者と滅びる者とが峻別されるということです。ノアは(おそらく人々の嘲笑を受けながら、)神に命じられた通り、とてつもない大きな箱舟を来る日も来る日も造り続けました。そしてノアは、友人、知人、近隣の人たちを箱舟に誘ったことでしょう。しかし人々はノアを相手にせず、地上が水浸しになるなど信じなかったに違いありません。それゆえ助かったのはノアとその家族だけでした。

 続く40−41節に「畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女がうすをひいていれば、一人は連れて行かれもう一人は残される」とあります。畑を耕すとか、うすをひくとかは日常の仕事です。ある神学者は「我々が見るところでは、この二人にはそう差がない。しかし、神の目から見ると、二人の差は決定的である。それは、一人は目覚めており、一人は目覚めていない。恐ろしいことであるが、信じ方が違うということになる。一人は、この世のことに心を失っていない。それは、自分をこの世に渡していないということである。信仰生活は簡単である。問題になるのは、この世に携わっている時、この世に自分を渡しているか、それとも神様に仕えて仕事をしているかである。このことは、天と地の違いがある。その違いの前には、「どんな仕事をしているか」などということは問題ではない。つまらないと思える仕事でも、神様の前に立って仕事をしていれば意義がある。家庭生活でも同じである。」と語っています。