二人のしもべ

 この僕(しもべ)は、他の仲間)の世話を託されていたと考えられます。一人の(僕)は決められた時間通りに使用人達に食事を整えました。彼は自分の仕事が目に見える形では他の使用人達の食事の世話であっても、この仕事が主人の家を守る大事な仕事であることを自覚していたでしょう。イエス様は「言われたとおりにしているのを見られる僕)は幸いである」と言われました。「見られる」とは、発見するというような偶発的な意味があります。この「忠実で賢い」僕)は、毎日を同じようにたんたんと自分に委ねられた仕事をしていたにすぎず、命令に服従することが不在の主人に対して自分の忠実さを示すことでありました。「忠実」と訳されている語は、他に「信頼に耐える」「信任を受けている」「真実な」「確実な」とも訳される言葉です。この言葉が名詞になると信仰者となります。又「賢い」は、他に「分別のある」「思慮深い」「慎重な」と訳される言葉です。主人がある日突然に帰宅して、いつも通りに決められた時間に食事の用意をしていたしもべを、イエス様は「幸いである」と祝福し、「はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるに違いない」と言われました。つまり忠実で賢い僕は更に重い責任を任せられるのです。

 このたとえを語られた時、イエス様は十字架の死を目前にしておられました。弟子達はイエス様が地上から去られた後、イエス様の言葉を守り、忠実な服従によってイエス様の意志を行い、イエス様が再び来られる日を仰ぎ見て、忠実に賢くふるまうように求められています。イエス様の不在がもたらす誘惑を、弟子達ははっきりと知らなくてはなりません。