律法は「義を求めさせる働き」を持つ

 このことをキリストの語られる話から考えてみますと、「神の求めている義」というのは、「キリストを告白する」ことでありますけれども、しかし、神の義そのものは、律法によって「神に仕え、神に従うこと」を求めており、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)「律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(同18節)と、こういうことを主イエスは神の義としてお示しになっています。

 このことをキリストによって受け止めるならば「律法」とは、してはならないことを示すと同時に(様々な形で私共に普通の人間として、悪いこと、間違っていることを自覚させるだけでなくて)、この神の義が、神に仕えること、あるいは天の父が全き者であるように全き者となれ、と、「義を求めさせる働き」をも持っているのではないかと思います。そして最初に申しました「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力を尽くして神に仕えよ、崇めよ」・・こういう事柄は、実は私達にとっては礼拝しかないわけであります。「礼拝」とは神に仕えること、欧米の言葉では「worship service・・神に奉仕する、ひざまずいて神を拝む」という意味です。それを私共がすることをゆるされている。これは最大の戒めを、私共が出来る形で守ることがゆるされているといえるでしょう。