信仰を通して

 しかし良心は、悪を指摘し、間違ったということを自覚せしめますが、罪の自覚を生じるまではいきません。律法はキリストに導く教師・案内係かもしれませんが、すぐはそういきません。パウロはキリストに出会って、キリストの救いをいただいて、「律法は罪の自覚しか生じない」と告白したのではないか、と言わざるを得ません。つまり律法は、神の本来の義である「キリスト」そのものをすぐに証し、教えるのではなくて、信仰を通して初めて、罪を告白する、そのことに至る、そこで初めて「罪の赦し」ということ、「『神の義』とは私達を赦して義とすること」に至るわけです。