先祖たちの不従順

 エジプト脱出後、エジプト王が追手を出した時、彼らは恐れてモーセに言います「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がない為ですか。荒れ野で死なせる為ですか。一体、何をする為にエジプトから導き出したのですか」。又、旅の途中、モーセに不平を言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は肉の沢山入ったなべの前に座り、パンを腹いっぱいに食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」と。

 イスラエルの人々は、モーセが神様から遣わされた自分達の指導者であり解放者であることを受け入れながら、事あるごとに不平・不満・つぶやきを重ねました。使徒言行録に「けれども先祖達はこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い」(7:39)とあります。そして神様への反逆の最も大きな出来事は、若い雄牛の像を造り、その像にいけにえをささげたことでした(同41節)。牛は、古代オリエントでは力と豊饒の象徴とされ、神々はしばしば雄牛と結びつきました。出エジプト記には人々がエジプト人からもらいうけた金の装身具を集めて、アロンに目に見える神々をつくるよう求めたことが記されています。そのことはいうまでもなく、第二戒である偶像禁止の戒めに真っ向から反抗する行為でした。

 キリスト教が偶像を嫌い、偶像を造ることもひれ伏すことも禁じているのは、いうまでもなくそれがまことの神ではないからです。「天地の創造主である神が創られた人間」が造った神(被造物が造った神)を神と呼ぶことは出来ません。人間が造った神々は人間の支配下に置かれ人の自由になります。造ることが出来るということは壊すことも出来るということです。(最近仏像がひんぱんに盗まれていますが)神様は盗まれるようなものでも又、火事で焼けてしまうようなお方でもありません。神様は天地創造以来、生きて働かれているお方であり、人間と人格関係を結んで下さるお方です。又、神様は目に見えない霊であり、私達は生まれながらに与えられている霊性で神様と祈り、交わることができます。私達は自分の内に与えられている霊性を神様によって働かせていただき、この霊性で神様への信仰が育てられ、神様の霊が我が内に住んでいただけるように祈るのです。