教会が建てられる岩とは

 別の角度から見てみたいと思います。それはペトロ自身のことです。まず宗教改革者ルターやカルヴァンは、教会が建てられる岩というのは、ペテロが告白した「主イエスご自身」のことだと反論しました。この反論を、ルターは何度も何度も繰り返し語りました。ローマ教皇の、古代の末期から続いてきた教皇の権利に対して、繰り返し繰り返し、それは聖書の証言ではないと言い続けたことに、ルターの意義があるのではないか、といってもいいのではないかと思います。ルターの根拠は、使徒パウロが「教会の頭はキリストで、教会はそのキリストの体である。キリストに結ばれて、その体を全員がつくる」と言っている言葉です。そのキリストの体を構成する一人として、その枝の一つとして各々がいるので、決して、上位の区別、差別はないということを言っています。文脈の上では「この岩の上に教会を建てる」という主イエスの言葉は、ペテロ個人について言われているようにも理解されますが、そのペテロは、同じマタイ福音書の16章23節では「サタンよ引き下がれ」と、主イエス・キリストから言われています。これも一つの驚きです。更に、主イエスが十字架につけられる直前にペテロは三度も主イエスを知らないと裏切りました。宗教改革者達が主張したように、教会は「主イエスは神の子・救い主・キリストである」と告白する人々によって成立してきたし、成立すると言わなければなりません。