選択の自由の限界

 そのパウロやルターの時代よりも、17世紀のミルトンの時代よりも今日の私達の知識は豊かになり、情報が複雑、多様になり、善悪についても広く知るようになっています。それだけ私達の意志の選択が難しくなっている面があります。その難しさはとりわけ、企業や所属団体、国の内外の社会問題や政治問題における、善と悪・正と不正に見られます。しかし人間関係、宗教や信仰の問題において、あるいは人間の生活に関する局面において、パウロと私達とはあまり変わっているとはいえません。善意と悪意、愛と憎しみ、謙遜と高慢、何よりも自分自身の方に曲がっている自己愛・我欲などは、今日も聖書の時代と変わっているとはいえません。そうした日常生活の実態に目を向けますと、選択の自由の限界は明らかです。さらに選択の自由の不自由のみならず、欲する善を行なわない自由意志はどうなるのでしょうか。神はそのような私達の救いの為に、キリストを与えて下さっていることを私共は思わずにはおれません。それと共に、欲する善を行わずにいる生活に、救い、赦し、癒しがないとすれば、私達はどうなることでしょう。神の赦し、救いがないままで、自由意志の動くままに、自分の選びたいものを選んでいることになれば、知らないうちに心は荒廃し、神を畏れることもなくなるでしょう。私達はパウロと共に、神に感謝する生活を歩まなければならない、歩みたいと思います。そういう生活を与えられていることに感謝したいと思います。これが一つです。