楽園追放の二つの理由

 この話を主題としたミルトンの「失楽園」という詩の中では、食べるなと言った神の命令があることを知りながら、食べる方を選んだ「自由意志」を問題にしています。これを選んでこれを選ばない・・。これは人間の自由意志です。その選択の自由意志、これを問題にしています。ミルトンは、人間が自ら自由に神の命令に反することを選択した。ここに罪の原因があるというわけです。ミルトンによりますと、神に似せて造られた人間は、神について、あるいは善とか義とか、神の定めた律法について充分に知っていました。しかしそれを知っている理性に人間の意志は従わなかった。選ばなかった。これを問題にしています。そして私共は、ミルトンよりはるか前に使徒パウロが、人間の自由意志について、選択の意志について、同じようなことを語っているのを知っています。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ロマ7・18−)。パウロはさらに続けて「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(同24節)と嘆いているのです。このパウロの自由意志の無力についての嘆きを、宗教改革者ルターは「不自由な奴隷的意志」と呼んでいます。