「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。」

 この言葉は他の文献にもあるそうで、当時の常識だったのでしょう。故郷での人々については実りが少ないことも予想されながら、それでも故郷の人々にも悔い改めを得させ,「神の国」の訪れを知ってほしいとのイエス様の愛による帰郷だったのではないでしょうか。しかし「人々はイエスにつまずき」(3節)ました。イエス様の奇跡の業を受ける信仰がありませんでした。人々の態度は硬い壁を叩くようなものだったのでしょう。人々の不信仰は、御子イエス様との交流の恵みを自ら捨ててしまったのでした。しかしイエス様の宣教の歩み=神の御計画=を止めることはありませんでした。いや、そうであるからこそ、進めなければならなかったのでしょう。