礼拝する対象を知る

 詩編95:5−6節には、主なる神にひれ伏し、伏し拝もうと記されています。キリストは、礼拝が天地創造主である主なる神を拝むという点で、継承しています。この天地創造の神、主なる神、キリスト御自身については、私達にどんなかかわりがあり、私達に何をなさった神なのか、まず聞かなければよくわかりません。礼拝において、神について、キリストについて聞き、礼拝するということを通してしか、私達は神について、キリストについて知ることが出来ません。実際、申命記旧約聖書)では「イスラエルよ、聞け。」(5:1)という言葉で、集会(礼拝)が始まっています。イスラエルにおいても、神の言葉を聞くことによって礼拝がなされていることが分かります。従って私共も、礼拝において神を礼拝するという事柄は、その神がどういう神であるか、あるいはキリストがどういうことをなさったのか、私達にとってどういう意味があるのか、とにかく礼拝で聞かなければなりません。その場合、聞くといっても、それはまさに私自身の力の限りというよりも、私共がキリストについて学ぶ、キリストを通して学ぶ、その時まさに聖霊の助けを必要としているということをいつも祈らなければなりませんし、そのことを求めなければならないと思います。