礼拝がサービス

 次に、礼拝がサービス(奉仕)である、ということですが、礼拝でどんな奉仕をするかということについて私共は戸惑うかもしれません。礼拝が神に対する奉仕である、キリストに対する奉仕であるということは、何を意味するか、ちょっと分からない感じがいたします。


しかし「イスラエルよ、聞け。」という言葉でイスラエル共同体の礼拝が始まっているように、そして私共も又、神がどういう神か、キリストがどういう神かを聞かなければならないように、「奉仕」が、「神の言葉を聴く」、「キリストに聴く」ということに関わっていると言わざる得ないように思います。そして聴くことにより、そこで語られている天地を創られた、父・子・聖霊なる三位一体なる神がどういうことをなさったか、また人間を創り、人間に対して、歴史に対して、どういう関わりを持っているか、を聴くことによって、私共は感謝の念をもってそれに同意し、それを受け入れるということがあるでしょう。


勿論、中にはすぐには受け入れられないこともあるでしょう。たとえば、神は人間に特別な使命<人間以外のものを治めよとの大変重要な、責任ある使命>を与えて下さったということ、或いはキリストが、山上の説教の中で、全く普通の平凡な漁師、お百姓、羊を飼っている人達に向かって「あなた方は、地の塩、世の光である」と言われました。これを聞いた人達はまさにびっくりしたと思います。しかし、一人一人が世の光・地の塩であるという事柄は、キリストによってしか語られなかった、人間に対する神の愛、キリストの愛の表現でしょう。私共がそれによって、どのような人間も、人間としての尊厳、尊さというものを知り、しかも一人ひとりが神様から特別な使命を与えられていること、他に代わることの出来ない使命をもっていることを「光」・「地の塩」という言葉から学ぶわけです。そして、そういうことを通して私共は喜ぶ、感謝をするということがあれば、それは神の言葉(聖書)に対する私共の応答、又は、聖書を私共が受け入れることになり、この「奉仕」という言葉と結びついているということになります。


要するに、その礼拝における奉仕というのは、神の言葉、キリストにおいて、キリストを通して、キリストの言葉を聞くことによって、神に感謝する。あるいはその言葉を通して、神を讃美するといいましょうか、そういうことが礼拝における奉仕であるといってよろしいと思います。