イスラエルの民の思い

 荒野の旅をしてイスラエルに戻った彼らは、エルサレムを首都と定めて安定した国家を形成しようとしていきます。荒野でさまよっていた不安定な時代だけでなく安定的な国家を形成して安定した時代にあっても、七枝の燭台のある幕屋の神殿は、相変わらずユダヤの中においては、中心的な存在となっていきます。そしてやはり常夜灯として灯る神殿の光に、人々は様々な思いを寄せることになります。彼らの思いを旧約聖書の言葉から、二つほど引用したいと思います。一つは、その後王様となったダビデの言葉ですが「主よ、あなたはわたしのともし火 主はわたしの闇を照らしてくださる。」(サムエル記下22:29)と歌っています。自分に敵対する者達に囲まれて、具体的にどっちの方向に進んでよいか分からないような状態にあった、そういうことがダビデに何回もあるのですが、ある意味で真っ暗闇に置かれるような状態になったとしても、決して神様は私を捨て置かれることはない。だから失望したり、自ら見失うことがない、とダビデは語るのです。危機的な状態に陥っても、決して自分は一人ぼっちではない。神は共におり、目の前の闇を照らして下さるということを歌っています。


これは、単なる比喩的な表現ではなくて、困難な状態に陥っている者に、その困難を切り抜けさせる方法を思い起こさせてくれる。そして、それを成し遂げる力を神は与えてくれるということを意味しているのです。


主よ、あなたは私のともし火。私の闇を照らしてくださる。」神との深い信頼関係が前提とされての言葉です。


もう一つ、詩編に記されています「あなたの御言葉は、わたしの道の光  わたしの歩みを照らす灯。」(119:105)


あなたの言葉が私の道の光である。私の歩みを照らす灯である。光というものが単なる象徴の言葉ではなく、具体的に神の言葉を意味していると記されています。


神の言葉というのは、アブラハムやイサクやヤコブ達、又、モーセに示された契約の言葉であリ、又、預言者達に与えられた預言の言葉でした。今日の私達に関連して言うならば、光・神の言葉というのは私達が手にしている聖書の言葉でもあります。その神の言葉が、私達の歩むべき道を照らし出してくれる光である。光によって照らし出されるならば、進むべき道がどのような道かを判断することが出来る。時にはその道ではなくて別の道を選ぶように、と促されることもある。そんな聖書の言葉、まさに私達の歩むべき道の光である、ということを詩編の記者は語っているのです。