はじめに

 教会の本棚を整理する内に、「神様への手紙」というアメリカの小さな子供達が神様に手紙を書いた、小さな童話のような本2冊を見つけました。「神様、前にも手紙書いたよね。覚えてる? さて、僕は約束したことはちゃんとやりました。でもあなたは、まだ僕に約束した馬を送ってくれません。どうなってる?」「もしアラジンみたいな魔法のランプをくれたら、あなたの欲しいもの何でもあげるよ。ただしお金とチェスのセットはだめ。」「神様、もしカメラを送ってくれたら僕も代わりに良いものあげます。」大抵はこのようなもので、いろいろなことが書かれています。


 これは本当に子供らしく天真爛漫な祈りで、私達に微笑を与えてくれますが、その内容は条件つきの祈りになっています。しかしよくよく考えてみると、大人である私達もいつのまにかこのような祈りをしているのではないでしょうか。ヤコブが野原で石枕をして夢を見た後、神様に「私を無事に帰るようにして下さるならば十分の一を捧げます。」という祈り(創世記28:20)、又、マルチン・ルターが雷で死にそうになった時、「神様、もし私の命を救って下さるならば修道士になります。」という祈りも有名です。いろいろな危機や困難に直面すると、私達は「神様、こうして下さるならば、私はこうします」というような祈りが自然に出てくる時があり、ある面、純粋な私達の気持の表れでもあり、そのような祈りを神様が聞いて下さることもあります。しかしこれは、危機に直面して自分でも分からず出た祈りであって、それが常にささげられる「祈り」であるならば問題があると言えます。子供なら子供らしさを感じますが大人がそのような祈りを続けるならば、キリスト教信仰を間違って理解する幼稚な祈りといえます。今日は、一国の指導者であったにも拘わらず、そのような祈りで悲劇的な結末を迎えた「エフタ」を通して、私達の信仰を確かめたいと思います。