献げること以上に大切なこと

  最初はサムエル記上15章22節の、預言者サムエルのサウル王への言葉「サムエルは言った。『主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。』」です。サウル王は「いけにえを献げる」という行為こそが大事であると考えていたのですが、サムエルは、そうではない。献げ物やいけにえ以上に大事なことがある。それは、「主の御声に聞き従うこと」。そのことが、むしろいけにえよりも勝るという価値観を伝えた箇所です。


もう一箇所は、詩編51編18節−19節です。これはダビデの言葉です。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれを献げます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。


神が求めるのは「献げ物」というよりは「打ち砕かれた心」、「悔いる心」。それを神は求めておられる。「謙虚な心で献げる」ということが大事であるということです。この箇所から分かることは「献げ物」というのは、献げることを機械的に行うのではなくて、献げる人の心、換言するなら神の言葉に聞き従う謙遜な心が伴わなければならないということが、すでに旧約聖書の時代に示されていたということです。


引用した二つの箇所は決して献げ物を否定しているわけではありません。「献げる」習慣は、その後も旧約聖書において継続されており、むしろ献げることは勧められております。しかし献げるということ以上に大切なことがある。サウルもダビデも献げ物を献げてはいたのですが、自分の欲や名誉を優先させたということを問題としている。そのようなことでは、献げても献げたことにはならないということでした。