はじめに

 今日の聖書に「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして・・」(8:11)とあります。イエス様は、ユダヤ人・異邦人の区別なく神様の救いを求めている人々の救いのために、自由に旅をされました。一方、ファリサイ派の人々は、律法を重んじるあまり、律法を知らない異邦人と接触して自分達が汚れることをとても嫌っていました。ファリサイ派の人々にとって腹立たしいことは、自分達が軽蔑している「異邦人」を救う奇跡をイエス様が行っていることです。そして、ユダヤの民衆だけでなく、周辺の異邦人達からもイエス様への人気が高まったことへの嫉妬がありました。ですから、「イエス様を試そうとして」の「試す」はイエス様の人気や権威を失わせる目的を含んでいました。何が何でもイエス様を「神の御子」として認めることは絶対にしないという前提で、イエス様に対して「天からのしるし」を求め、議論をしかけました(11節)。「天からのしるし」とは、「太陽や月がどうにかなる天変地異」や、旧約聖書預言者が行った奇跡と同じような奇跡を要求したと考えられます。イエス様を信ぜず、悔い改めのないファリサイ派の人々を、イエス様は「そのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれ」ました(13節)。