段階的成長

 前回(8:14−)イエス様は、弟子達が御自分の語る言葉を悟らないので「目があっても見えないのか」と言われました。四千人に食べ物を与えた奇跡(1節−)を目の当たりにしても、弟子達はイエス様が神の御子であることについて「ぼんやり」としか分かっていませんでした。彼らが「全体的に」はっきりわかったのは復活の主に出会ってから(もしくは聖霊降臨の時)で、その御力を思い知らされたことからでしょう。


 私達の信仰生活においても、イエス様への理解が段階的に成長していくということが起こります。私達は信仰者として、まだ「ぼんやり」とごく一部しか分かっていません。神様の豊かさは人智を超えた大きさです。すぐ悟ることが出来なくても、神様の御前に希望を持ち続けて信頼して立ち続けることです。それによってイエス様が、憐れみを持って 救いの手を差し伸べて下さっていることを、今日の箇所から学べます。


 神様に遠慮せず、もっとよくわかりたい!と顔を上げることが許されているのが大きな恵みです。主の憐れみによって「見えるようになる(見えるように成長させていただける)のです。「受洗して救われたからそれでいい」では、「一部をぼんやり」しか見えていないのではないでしょうか。