2011-02-20から1日間の記事一覧
もっと見えるように、もっと聞けるように、もっと神様の福音を語れるように、もっと神様の真理を悟ることができるように、成長し続けることが私達に求められています。悪の誘惑に戻ることなく、神様の招きに従い、御前に立ち続けることで豊かな信仰の実を実…
この村とはベトサイダです。ベトサイダはイエス様の奇跡を数多く見ながら悔い改めず、イエス様がお叱りになった場所です(マタイ11:20)。そのような村に、この盲人が入ることをイエス様は禁じられました。新しい一歩を踏み出すのは、不信仰の「この村」か…
前回(8:14−)イエス様は、弟子達が御自分の語る言葉を悟らないので「目があっても見えないのか」と言われました。四千人に食べ物を与えた奇跡(1節−)を目の当たりにしても、弟子達はイエス様が神の御子であることについて「ぼんやり」としか分かっていま…
今日の聖書では、癒しが「段階」を踏んでいます。最初の癒しの後、「見えるようになって」(24節)とありますが、これは「見上げて・顔を上げて」とも訳されます。「何か見えるか」とのイエス様の問いに、「人が見えます!」「木のようですが歩いているのが…
今日の聖書は癒しの奇跡の一つです。「耳と口の不自由な人を癒した」話(マルコ7:31〜37)との共通点として挙げられることは、体の不自由な人が連れて来られ、イエス様が手を置く(触れる)ことによって癒されると信じて懇願していることです。(当時は癒す…
22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。24 す…
17 なおしばらくの時がたてば/レバノンは再び園となり/園は森林としても数えられる。18 その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。19 苦しんでいた人々は再び主にあっ…