はじめに

「メシア(救い主)」については、ペトロや他の弟子達もユダヤの民衆までが政治的に自分達を自由にしてくれる救い主であり、その方は栄光の姿で現れると思い込んでいました。しかしイエス様が弟子達に語られた「メシア」の姿は全く逆でした。人々の罪を代わりに負い、苦しみを受け、殺されるという惨めで辛いものであり、それを「メシア」が従順に行うことにより「人類を罪から救い出す」という神様のご計画が成就するのです。今日読んだイザヤ書にその事が書かれています。

神様が人々の罪を赦す為に、なぜ「贖(あがな)い」としてメシアを悲惨な姿で殺すという方法を取られたのでしょうか。それについてある神学者が、讃美歌262番の解説の中に書いていたのでご紹介しますと、

「…つまりイエスはみずからを、神よりのメシアとして、ここで果たさなければならない なにものかを果たしたのです。…人間の罪は神の律法によれば死に値するものであって、神の律法は罪に対して死を要求しているのです。……キリストが十字架上で、その受難と死によって、罪に対する神の律法の要求を果たしてくれたので、人間は、罪とその呪いから解き放たれて救われたのです。そしてそのすべてが神よりの恩恵として与えられている。これが十字架の救いです。」