わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って

自分を捨てるとは、自分を忘れて、とも訳せます。主に従うことを第一に思い、自分の欲求を忘れられるかどうかが問われています。「自分の十字架」とは、キリストと共に十字架を負う精神、苦難そのものです。十字架刑は恥辱と最高の苦痛を与える刑罰でした。罪を贖(あがな)う「メシア」は「最高の苦しみを受け耐え忍ぶ」ことで、神様のご計画を成就せねばなりませんでした。

主に従いたい者も、そのような最高の苦しみを耐え忍ぶ覚悟を持つことが要求されています。