弟子達の無理解

その道中で、イエス様は弟子達にご自分の「受難の死と復活」について二度目の預言をされ、「(わたしは)人々の手に引き渡され、殺される」と付け加えられました。それでも弟子達はイエス様が「苦難の僕としてのメシア(救い主)」であることを理解せず、イエス様は「ダビデ王のような栄光のメシア」であるとの先入観の中にとどまっていました。「イエス様は、神様への従順を通して復活という栄光を得られる」との奥義を理解した弟子は一人もいませんでした。さらに誰ひとり「詳しく教えて下さい!」と頼むこともしませんでした。「弟子達はこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(32節)からです。

<当時の弟子達だけでなく、私達も又、主の御心が分からないといって、ただ恐れるのでは、その距離は広がるばかりではないでしょうか。>

弟子達が、カファルナウムにある家に到着するまでの間、議論していたことは、仲間内で誰が一番偉いかということでした。「何を議論していたのか」とイエス様に問われ、弟子達は答えられませんでした。それが主の御心に添わないことだと分かっていたからです。