ファリサイ派や律法学者の立場

彼らは、旧約聖書で教える神様の義(神様が教える正しさ)に従うことにおいては忠実でした。自分の良心にかけて、真理であることに熱心でした。(私達のように、頭でわかりながらも妥協の多い生き方−たとえばウソも方便など−をしている者達に比べたら、比べものにならないほど、自分に厳しい生き方をしていた人達が多かったのだろうと推測いたします。)

自分が正しく生きることに熱心な人は、そうでない人に対して、見方は厳しくなります。なぜなら自分は自分の本能や欲望に対して戦い、節制をし、努力をしているのに対して、彼らは努力せず、自分の気持と戦うこともせず、律法に無頓着で、思うまま好きなように生き、その結果、失敗し、困難に陥り、疎外されても、それは自業自得だと考えるからでしょう。  

エス様が彼らを受け入れることは、彼らの生き方を肯定しているようで、そのような態度が、ユダヤ人社会の規律を乱し、律法の権威を落としめ、又、罪人や徴税人の生き方でも良い、という空気を生み出すことを懸念したのかもしれません。