どこに立つか

今日読んだ1節には、「主によってしっかりと立ちなさい」とあります。

「主によって立つ」は、「信仰の中に立つ」、「恵みの中に立つ」、「福音の中に立つ」という言い方もされます。「主によって立つ」者は、その存在自体が「主」に属していますから、「主」によって生き方が定められます。主体が「主であるイエス・キリスト」、従が「わたくし」です。つまり、「わたくし」は、イエス・キリストに従う者、イエス・キリストを主人として、その主人につかえる「しもべ」といえます。(これに対して、神様を信じない者は、主体も従も「わたくし」(=自分が最高決定者)ということになります。)

主によって立つ者、すなわち天に国籍を持つ教会の人々に対して、4節以下では、教会がどのような群であるかを指し示します。

まず、教会を支配しているのは喜びです。この喜びは、イエス・キリストを主として仰ぐことを根拠とした喜びであり、その喜びの中に留まり続けるようにと命じています。

 

*「あなたがたの広い心が全ての人に知られるようになさい」(5節)

「広い心」とは、権利とか建前にしがみついたり、こだわったりせず、よりよい善のため、とりわけ愛する者の為に、本来あるべき姿から離れて行動する、柔軟で寛容な考え方を意味します。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6−)とあるように、です。そしてこの後すぐに再臨が近づいていることを告げます。この「広い心」は、再臨のイエス・キリストに関心が向けられ、私達が主の御前に立つことを考えたなら、誰に対してもかたくなにならず、しがみついている様々なことから解き放たれて、こだわりが消え、柔軟で寛容な広い心を持つことが可能となるということでしょう。