「永遠」と出会っている世界の日常を生きる

しかしこの日常の中で、かろうじて永遠をみつめながら生きているというものではありません。そうではなくて、「永遠」とすでに出会っている世界、そして日常を生きているということです。そのことを自覚したいと思うのです。私達がこの世界で造り出すこと、体験すること、苦悩すること、そういう様々なことは、日常に埋没して消え去ってしまうというのものではなく、むしろ永遠に向かって造り出し、体験し、苦悩しているということです。
永遠に連なっている今を生きている、ということです。それが、今、この時代に生きるキリスト者の責任です。すなわち詩編やマタイ福音書の言葉は、今日の私達の信仰者に語りかけられている神の言葉なのです。
ところで、永遠がすでにこの私達の日常と出会っている、この日常に私達は生きていると申しましたが、それは抽象的な概念ではないのです。
歴史の中の具体的な出来事、すなわち、主イエス・キリストがこの世界に到来したという出来事に裏打ちされている表現です。主イエス・キリストを見る時、私達はまさに「神を見る者」とされるのです。

特に本日、この礼拝は、仙台南伝道所の開設の記念の礼拝です。
まことの創立者であるイエス・キリストを見つめる。特に、イエス・キリストの十字架の出来事を想起する。そういうことによって私達の日常は「いかに幸いなことか」と、呼び得るほどに確かなものとされるということを覚えたいと思います。

「いかに幸いなことか」と、旧約聖書の詩人や新約聖書の記者達は記した、その「いかに幸いなことか」と呼び得る「幸いな日常」をしっかりと歩む者とされたい。それが今日の聖書の箇所から私達に語りかけている言葉であるということを覚えたいと思います。