イエス様の従順

エス様を正しく理解できなかったのは異邦人だけではありません。イスラエル民族が待望する「メシア=救い主」は、外国人支配から自分達を解放する政治的な強い「王」を期待しましたから、イエス様を「メシア」として受け入れることは出来ませんでした。イエス様も御自分の「救い主」としての使命が「苦難の僕」(イザヤ書53章)であり、彼らの意識と全く違うことも御存じでした。彼らはイエス様のお話や奇跡を見聞きしながらも、自己保全のためイエス様を殺したいとの感情のとりこになっていました。その彼らの不利な訴えに対してイエス様は弁明せず沈黙を守り続けました。それは、イエス様が苦しみ死ぬことにより、すべての人の罪の贖いをさせるという父なる神様の御心が既に示されており、イエス様は「それに従うのみ」との決断をされていたからです。一方、ピラトにとって弁明の機会が与えられているのに弁明しないのは常識を越えることでした。ピラトは沈黙されるイエス様に、「何も答えないのか」と不思議に思った、と聖書は伝えています。