神ではなく、人を見たピラト

過越祭における恩赦(囚人一人の解放)は、そのような背景のもとで、総督ピラトの人気取りの政策の一つだったのでしょう。ピラトのもとに押しかけて来た「群衆」は、恩赦を利用して、暴徒として投獄されていたバラバ(恐らく政治犯)の釈放を叫びました。それは、群衆を背後から操り、扇動したユダヤ教の有力者である「祭司長達」から出た行為でした(11節)。
ピラトは、イエス様が自分に引き渡されたのは、祭司長達の妬みの為だとわかっており、イエス様は無実であるとの判断により、釈放する方向へ誘導しました。群衆には「どんな悪事を働いたと言うのか」と死刑になるような悪事は何もないことを認めさせようとします。しかし三度の警告にもかかわらず、祭司長達に扇動された「群衆」の意思は変わらず、「イエスを十字架につけろ」と激しく叫び立てる声の前に、ユダヤ人の評価も欲しいピラトの決断は揺らぎ、最後にピラトは、イエス様の無実は分かっていながら、人間として仰ぐべき「神の御顔」ではなく、人の顔色を見て、イエス様を鞭打ち、十字架へと引き渡してしまいました。このように神様を無視して、人間を優先させることこそ、神様の悲しまれる罪の一つなのです。それに加えて16節以下から、罪人としてローマ兵士が加わります。