教会

教会とは、イエス・キリストを頭(かしら)とした、イエス・キリストの身体にたとえられます。使徒パウロは、教会に対して「イエス・キリストという土台を既に据えた」と言いました。この言葉の背景にはコリントの教会が、リーダーをめぐり分裂の危機にさらされていたという背景がありました。パウロは彼らの人間的な判断の危険を見抜き、自分が最初に据えた「土台」=「イエス・キリスト」に立ち返るように勧めています。
イエス・キリストを土台とする根本精神、パウロが神様から委託されて建てた土台の上に、正しく造り上げられている教会であるならば、その教会の全ての判断は、限りある人間の知性を越えて。神様から示される答えから導かれるものであることを、教会の人々は再び思い起こさねばなりませんでした。さらにもう一つ、思い起こさねばならないことは、「共同体としての教会」が、神様の目から見て、その評価に耐え得る信仰共同体であるかを「問われる日」(終末)が来ることです。