3章19−23節
19 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。
21 わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。
23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
1章67−80節
67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。
70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。
71 それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。
72 主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。
73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
74 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、
75 生涯、主の御前に清く正しく。
76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。
78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」
80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。
はじめに
本日は仙台南伝道所で礼拝が献げられるようになって6周年となりました。これまでの神様の御導きと御守りを、ご一緒に感謝致しましょう。これからも、イエス様の福音を正しく宣べ伝えていく群れとして歩んでいくことができますよう、ご一緒に祈っていきましょう。
礼拝室には立派な大きなリースがかかり、玄関には御降誕の情景が飾られ、今日は「待降節」の第一主日です。一年をイエス様のご生涯に当てはめて、その歩みを思い起こす為の暦(教会暦)がキリスト教の歴史の中で使われてきました。クリスマス、イースター、ペンテコステの三大祝祭日をはじめ、受難節など他にもあります。教会暦の最初は「待降節」から始まります。「待降」とは主イエス様のご降誕を待ち望むという意味です。
こよみの最初が「待降節」!
一年の初めの第一歩が、いきなり「御降誕」のお祝いではなくて「主を待ち望む、待降節」であることに深い意義を覚えます。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る為である。神が御子を世に遣わされたのは世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為である。」(ヨハネ3:16−17)との御言葉は、毎週「赦しの言葉」として、私達の「懺悔の祈り」の後に戴く御言葉です。イエス様は十字架の死から復活され死に打ち勝たれたので、私達は罪の世界に沈んだままではなくイエス様を通して神様との関係を修復していただけるようになりました。太陽の光から身をひそめれば、その暖かさの恩恵にあずかることはできないように、神様から離れた生活や考えのままでは神様の愛を存分に味わうことは出来ません。神様の豊かな愛にふさわしく歩むために、神様の「聖(きよ)さ」を我が身に帯びさせていただきたいと思うものです。レビ記に「私(神様)は聖なる者であるから、あなた達も聖なる者となりなさい。」(11:45)とあるように、「待降節」を「悔い改め」という準備期間として過ごしたいと思います。
ザカリヤの預言(ザカリアの賛歌)
今朝の聖書は三つに分かれ、①「神様は、多くの預言者が言っていた通り、ダビデの子孫から救い主を立て、敵の手から自分達を救って下さる。それはイスラエル民族の先祖アブラハムと主が契約を結んだことを忘れずにいて下さる憐れみによるのだ」、②「自分の息子として与えられたヨハネの使命が神からの特別なものであることの誇りと感謝と喜び」、③「救い主の到来と平和へ導かれる希望」が語られます。
78節の「あけぼのの光」とはイエス様のことです。抑圧されて希望のない人々を「暗闇と死の陰に座している者たち」と表現し、そこに高い所から希望の光、即ち、救い主が訪れ、平和へ導かれる。それは、天から与えられる救いへの望みです。マラキ書では「義の太陽」(3:20)と表現され、「その翼にはいやす力がある。あなた達は牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る」とあります。昔、「人間は誰でも心に闇を抱えている。他人には言えない闇もある。しかしそれを抱えたままでも自分の闇を闇だと認識して、その暗さを暗闇として認識していればこそ、光の明るさが分かる。闇の暗さを感じなさい。それが深ければ深いほど、光のありがたみが分かる。」と説教の中で聞きました。闇を闇と認識できれば、その戦いは自分一人だけではなくイエス様が共に歩んで下さる。神の御言葉が光の武具となって助けて下さるのです。 (後略)。