私達の罪が、キリストに転嫁された!

 キリストを信じることによって私共が義とされるのは、神の義から見て義しいとされるのですからこれは大変なことです。それがどうして起こるかというと、キリストが私達の罪を負う。その時キリストの持っている神の義を与えて下さる。私達の罪とキリストの義を交換する。信仰によって義とされるという「義」は、キリストの持っておられる神の義であり、私達の外(側)にある義です。ルターは「外側にある義が私達に与えられ、私達の罪がキリストに担われる」と説明しています。この説明はカルヴァンにも受け継がれ、宗教改革者たちは信仰義認のことを「罪が転嫁される」と表現しました。神の義がキリストによって私達に与えられる。私共の罪がキリストに担われる。私共自身が持っている神の義ではありません。ですから「全生涯悔い改める」というのが信仰の告白として出てくるのではないか。私共が神を満足させる義を行っているのではない。それゆえに「恩寵(おんちょう)のみによって」「恵みによって」私共は救われるということが明確になります。