三つのキーワード

 今朝の聖書には三つのキーワードがあります。1「霊の初穂」(23節)。2「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(同)。3「万事が益となる」(28節)です。

 「霊の初穂」。これは、キリストを信じることによって義とされることを受け入れ、自らを省み、罪の告白をして義と認められ、洗礼を受けることでしょう。これは終生私達に与えられるものです。洗礼を通して、洗礼のしるしを通して、終生その道を歩むものです。日本基督(きりすと)教団の信仰告白においても、「この変らざる恵みの内に」という言葉があります。「この変らざる恵みの内に」とは、信仰によって義とせられる。洗礼を受ける。ということを言っています。神の御霊が、洗礼を受け、キリストを受け入れることによって与えられている。その御霊は御言葉(説教と聖書)を通していつも私達を守っている、導いているということです。「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」パウロは同じことをロマ書7:18「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」。7:23「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と言っています。これはパウロのうめきです。そしてすぐあとで「私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と感謝し、再び「このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」とうめきの原因を繰り返しています。これはパウロが神の子となること(体のあがなわれること)を待っている表れでしょう。同じことがガラテヤ書5:17にもあります。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」肉とは身体のことです。身体があがなわれるのを待つとは死ぬことです。死ぬことによって私達は肉の誘惑(ルターは肉の攻撃と表現)から解放されるわけです。私共は洗礼を受けることによって、父なる神を「アバ,父」と呼ぶ神の子としての初穂が与えられている。しかし体が贖われて復活のキリストにあずかるという状況ではありません。にもかかわらず、霊の導きによって聖霊の果実(良い果実)を生み出すことが赦されています。きよい生活をすることが赦されています。しかし自分で「これがきよい生活である」ということは出来ません。それはまさに感謝をもって受け入れるか、あるいは信仰の告白(ざんげの告白)と裏腹にあるものでしょう。

信仰によって義と認められるということが、キリストにおいて表れた神の義であり、キリストの義である以上、私共はキリストの持っている義を行うことは出来ません。これは95カ条の提題を出した時のあの悔い改めに通じるルターの考えでもあります。