闇の行いを脱ぎ捨てる

 それでは起きてどうするのでしょうか。12節を見ると、「だから闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」というのです。まるで私達が闇の行ないにかかわっているような言い方をしています。私達クリスチャンは闇の行ないなど関係ない。これは神様を信じていない人達へのメッセージであって、信じている私達にではない、と思うのは私だけでしょうか。しかしこの手紙は12章の初めに「兄弟たち」と呼び掛けていますから、この13章はその続きでクリスチャンへのメッセージです。未信者は、霊的に死んでいるといわれます。クリスチャンはキリストと聖霊の力で罪が赦されて霊的に生きています。しかし霊的に生きているクリスチャンでも闇の行ないと無関係ではありません。

 闇の行ないを捨てよといっていますが、この闇の行ないとはどんなことを指すのでしょうか。13節に「酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、妬み」の6つがあげられています。リビングバイブル訳では「どんちゃん騒ぎをしたり、よっぱらったり、姦淫したり、肉欲にふけったり、争ったり、妬んだりして、時間を浪費してはなりません。」と訳されています。自分に関係する項目はない、という人もいるでしょう。これは一世紀のローマ市におけるクリスチャンの生き方に関係しています。パウロが当時の闇の行ないをあげたら数えきれなかったと思います。コリント市における闇の行いについては、第一コリント6章9節−10節にあります。(みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者)。それぞれの都市における警戒する闇の行ないは違ったのです。闇の行ないとは肉の行ないです。神様に逆らう行ないです。パウロが今生きていたら、どんな闇の行いをあげるでしょうか。

 「争い」、「妬み」はクリスチャンと無関係とはいえないでしょう。党派、分裂、分派・・は教会の中にもあるのではないでしょうか。パウロのいう闇のわざはクリスチャンに無関係ではないのです。