受難節と洗礼

 受難節と洗礼は、歴史的に密接な関係がありました。古代教会において、洗礼は一年に一度、復活日(イースター)のみに行われてきました。福音を知らずに死の世界にいた罪人が、イエス様の贖いを通して神様のもとに新たに生きるようになり、神様中心の教会をつくるという図式は、まさに「復活」であり、サタンの支配する死の世界を神様が打ち滅ぼし勝利したということです。ですから、そのイースターの前に置かれたこの受難節は、洗礼志願者にとっての準備の時として「克己・修養・悔い改め」が最重要課題でした。過去の悪癖を断つ決意と努力、御言葉や主の祈りや使徒信条など仲間内でしか明らかにされない極秘の大事な御教えを伝授され、深い懺悔と罪への悲しみをあらわす「灰をかぶっての祈り」を献げイエス様の十字架上での御苦しみに思いを馳せながら断食する期間でもありました。

 克己・修養・悔い改めをしっかり実行していこうとすれば、罪の大きさ、罪との断ち切り難さ、逃れ難さを深く探っていくことができます。その恐ろしさ・重圧を知り、体験し尽くさなければ、逆に神様の側へと解放された喜びを味わうことが難しく、中途半端な信仰になるでしょう。罪の恐ろしさの認識を経て始めて、罪の縄目を解いて下さった主イエスの十字架の贖いへの感謝が生まれ、揺るがぬ信仰を持つことができ、自由にされた真の喜びにあずかることができます。そのような人こそ「自分の体を聖なるいけにえとして献げる」ことができ、真の礼拝の喜びにあずかれるのです(ロマ書12:1)。