私達の良心

 考えてみますと、「良心」はモーセの律法よりもずっと以前、神様が人間を創られた時にすでに心に刻まれており、良いことについての理解を持ちながら、それに反することをした場合には、それを「とがめる」という形で良心が働きます。そういう心は誰でも持っています。これと結びついているのが神です。つまり、罪に対して罰する、罪に対して赦さない・・というのが旧約聖書を通して知られてきた神の働きです。ところが本日のエレミヤ書では(これとは違う形で)「『主を知れ』と教えることはない」と、誰でもが知っている「良心」とかかわった形で神様が知られています。全ての人には良き心が与えられています。しかし悪いことをチェックする働きは弱い(現代でも弱い)。悪いことをする前に良心が働いて、悪いことをチェックするはずが、アダムとエバが禁断の木の実を食べた時から、悪いことをした後で神にとがめられて、初めて「しまった」と思った。行為の前に、それを差し止めるという形ではなかなか働かない。してはならないこと、言ってはならないことをした後で気付くのです。それが良心の働きです。神様は私達を創った時にその良心を植え付けた。これこそ、神様がご自分に似せて人間を創られた残照です。