神のいつくしみ

 一方的に恵みとして与えられるものですから、恵みと慈しみというのは同じような意味で使われ、人間が人間に示す慈しみがルツ記にそのように表現されておりますが、この23編で言われている慈しみは、人からではなくて、神から与えられるというのです。羊飼いから羊に与えられる。ですから自分の努力や手柄で獲得するものではないのです。自分が努力すればいっぱいもらえるとか、自分が何か立派なことをすれば得られるというものではなくて、全く一方的に神から与えられるもの、それが恵みと慈しみであり、それが「いつも私を追う」と表現されています。受身形で、自分から追うのではなく、向こうの方から追ってくるのだという表現が使われています。それは勿論「慈しみと恵み」ですから、一方的に与えられるものとして受身のような表現がなされていますが、その後で、劇的な変化がこの羊に起きております。それは受身ではなくて、主体的に、自分の判断で語る部分が最後に記されています。それは、「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」というのです。羊は自主的に、羊飼いの所に身を寄せると決断している。


最初に申したように、これは神と私達との関係を比喩的に表現しているもので、まさに、神とキリスト者の関係を二重写しにしている表現であるといえます。それが詩編の23編。それゆえに詩編23編はしばしば引き合いに出され、珠玉の詩編として何度も読まれる詩編なのです。