2009-11-22から1日間の記事一覧
新約聖書で「良い羊飼い」という比喩をもって伝えようとしたのは、実に、イエス・キリストの十字架でありました。十字架という出来事によって、自らの命を羊の為に差し出した羊飼いの姿が表わされています。「羊飼い」という比喩は、詩の世界の単なる文学的…
それが普通の価値観であるとするならば、その普通の価値観を打ち破ったのが「良い羊飼い」です。良い羊飼いは、羊の命を守るために自らの命をかけるというのです。とするならば、これはもう私達の常識では人間業とは思われない価値観です。確かに三浦綾子の…
そのような議論は旧約聖書のヨブ記にもあります。神様の所にサタンがやってきて、神様と対話する場面です。神様がサタンに対して、「この世の中でヨブという人ほど立派な信仰を持った者はいないだろう」と、彼ほど正しく生き、神を畏れて、悪を避けている者…
羊飼いと羊にたとえて、神様との関係を私達が教えられるというのは、この詩編23編だけではなく新約聖書にもあります。その新約聖書にある一例を、先ほど、ヨハネ福音書10章で読みました。特に11節からは羊飼いが出てまいりますが「私は良い羊飼いである。良…
一方的に恵みとして与えられるものですから、恵みと慈しみというのは同じような意味で使われ、人間が人間に示す慈しみがルツ記にそのように表現されておりますが、この23編で言われている慈しみは、人からではなくて、神から与えられるというのです。羊飼い…
そんな羊と羊飼いの歌は、23編の最後で、もう一つのことが言われています。学びたい第三のことですが、6節に、「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。」と歌っています。一生涯、恵みと慈しみは、いつも私に付き添ってくるということです。「恵み」…
しかしそうではない。羊は、主に養われる時に自分に必要な物が与えられて満足だ。そういう状態にあるということが歌われています。「食卓は整えられ、その杯は溢れている」とまで歌うのです。今日は収穫感謝祭!私共にも必要な物が与えられている。それは「…
もしこの羊が、青草や水だけでは十分でない、もっともっと欲しいものがある、と、ぜいたくを求めるならば、まだまだ欲しい、満足ではない、欠けだらけだと叫ぶのかもしれません。まるで、箴言に出てくる蛭(ひる)の娘のように・・。「蛭の娘はふたり。その…
学びたい第二のことは、一節の後半部分「私には何も欠けることがない」ということです。羊飼いが、青草へ・水へと導いてくれるので、羊は「私には何も欠けることがない」と語るのです。必要な物は十分に備えられているので満足しているという状態です。羊に…
1節の冒頭に「ダビデの詩」とあります。ダビデというのはイスラエルの王様、人々を導く最高権力者でありました。王ですから大勢の人を導くのですが、自らをも、自分をも導かれる。自分も導かれる主が必要である。「自らを導く飼い主が、まさに主である」と…
学びたい第一のことは、「主は羊飼いである」ということです。以前、使用していた口語訳聖書では、「主は私の牧者」と訳されておりました。今日、私達が使っている新共同訳聖書は「私」という部分を訳さずに、「主は羊飼いである」と訳しています。原文では…
詩編は150編もある大きな書物で、大体、旧約聖書の中央に位置していますから、聖書を真ん中からちょっと右の方を開くと詩編が開かれます。その150編ある詩編の中でも特に有名なのが、この23編です。はじめに「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。」と…
昨年のクリスマスに、教会から全員にホームカレンダーを頂き、それを壁に貼ってあります。そのカレンダーには、マーガレット・タラントという画家が書いた絵がついています。その絵の構図は、長い杖を持った羊飼いが中央に立っており、その周りに20匹ほどの…
7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りし…
1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなた…