王をも導かれる主

 1節の冒頭に「ダビデの詩」とあります。ダビデというのはイスラエルの王様、人々を導く最高権力者でありました。王ですから大勢の人を導くのですが、自らをも、自分をも導かれる。自分も導かれる主が必要である。「自らを導く飼い主が、まさに主である」ということを、先ず冒頭で言っているということです。いうならば「全ての人の飼い主である」ということが言える訳です。ずっと後の時代ですが、ユダヤ人の男性は頭に小さなキャップをのせています(キッパと言います)。ユダヤ教だけではなくカトリックローマ法王や、枢機卿も頭に小さなキャップをのせています。それは、自分達が最高ではなく本当の導き手なる方がいる。その方は私達をも招き導く飼い主で、それは「主である」ということを忘れないように、頭の上にそれをのせているという説明を聞いたことがあります。「主は私の羊飼いである。」そのことが、まず最初に詩編23編で言われていることです。