私達の奉仕の前に・・

 キリストご自身も、「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられる為ではなく仕える為に、また、多くの人の身代金(多くの人の生命を買い取る購入代金)として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20:26−28)と、弟子達に語られました。つまり、あなた方は奉仕する者、奴隷になり、全ての人の僕にならなければならない。なりなさい。私が来たのは仕えられる為ではなく仕える為に、多くの人の命を買い取る代金として、自分の命を献げる為にきたと言われます。


私共の命を買い取る為に来た。買い取るというのは悪魔から買い取ると考えても良いし、罪からあがなうと理解しても良いでしょう。又、私共の命を「真の命」とする為に買い取る、その為に自分の命を献げる、そこまで自分は仕える、奉仕するとおっしゃっているのです。


このことは礼拝において、まさにこの天地創造の父なる神、主なる神の言葉を聞くわけです。この父なる神と主イエス・キリストの奉仕に基づいて、私共の奉仕はどうあるべきだと考えられるでしょうか。


考えて見ますと、私共の全生涯がこの父なる神とこのキリストの奉仕に従うものであるということは、ある意味で大変な祝福であり、大変な恵みの言葉ではないかと思います。キリスト者の全生涯、職業生活、日常生活、家庭生活、それらは全てが神への奉仕、キリストへの奉仕、すなわち礼拝の延長、礼拝に準ずるものだと聖書は言っており、それを特にプロテスタント宗教改革者達は受け継いできました(職務召命論など)。


パウロはそのように、私共の日常生活が神の奉仕だということが最も合理的な理性的な礼拝だとロマ書12:1で言いましたが、実はそれは、当時の人々が動物や穀物などを神に捧げる(供物)、そういう礼拝に対する批判として語った言葉です。