未見(みけん)の我

 岡山の聖心女子大学学長をされたシスターの渡辺和子先生の文章の中に「80歳を越えました。それでも尚、私は日々、未見の我が現れるのを日々楽しみにして生きている」とありました。年齢に拘わらず、未だかつて見たことのない自分への期待を持つというわけです。これこそ「神様の御霊の働きへの、キリスト教徒の信仰」ということになるかと思います。この、新しい生き方への希求、そういう望み、これは個人の範囲にとどまるものではなく、その個人を取り巻く周囲にも広がるものです。一人が変われば周りも変わる。


 ウェスレーは、「キリスト教は社会的宗教である」といいましたが、社会活動するということだけではなくて、一人が変われば周りも変わっていく。そうして社会全体がキリスト教的に良い方向に造り変えられていくことを彼は望んだのです。


 自分でありながら、今までの自分になかったような新しいものが自分の中から現れてくる。そしてそれは人を喜ばせ、神様にも喜んでいただける。だからつい自分も楽しくなる。嬉しくなる。こういう人間の救いの経験を私達は味わわせていただかなければならないと思います。