不条理を受け入れる

人は誰でも不条理を抱えて生きている。むしろ意味を見つけ出して、その不条理を受け入れる時、自分が自分と和解出来るのでないかと悟ったというのです。不条理の人生を嘆くのではなくて、不条理の人生に対して、自分なりの答えを投げかけ、そしてその人生をこつこつと歩む。そこに、生きる意義があると悟った、というのです。
フランクルや、姜尚中(カン サンジュン)もそうでありましたが、ヨブは不条理の人生にどのような意義を見出したのか。その答えが、本日のヨブ記42章の1節から6節です。
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ヨブは主に答えていった。
「あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
『これは何者か。知識もないのに 神の経綸を隠そうとするとは。』

そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。
『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』 

あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵(ちり)と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。」
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「何の利益も与えられない」といって嘆くのではなくて、「神と共に生きる」。そこに、生きる生きがいを見い出した。「ただ生きるのではなくて、神と共に生きることこそ意義がある」と悟ったのです。
姜尚中(カン サンジュン)の言葉でいうならば「人間てすごい。捨てたものではない。」 フランクルの言葉でいうならば、「それでも人生にイエス(Yes)という。」 そしてヨブの言葉でいうならば、「今、この目であなたを仰ぎ見ます」という生き方です。