「誰が罪を犯したか」 

 この不条理という問題は、新約聖書にも出てまいります。今日引用したヨハネ福音書もその一例です。「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子達がイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』」
時代は旧約から新約に過ぎ去っていますが、弟子達はやはり因果応報の考え方に従ってイエスに質問をしています。当時の常識的な考え方によれば、目が見えないのは、原因が必ずあるはずで、罪がそこにあるはずである。だから弟子達は誰が罪を犯したのかと聞き、生れた時から目が不自由であることは、本人が罪を犯す余裕はなく、本人以外の、一番近しい存在である両親が罪を犯した結果なのかと問うたのです。あくまでも因果応報の法則上です。