神はわれらと共にいて下さる。

イエス・キリストの答えは明快でありました。
『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れる為である。』
驚くべき言葉です。目が見えないことが神の業が現れる機会であるというのです。具体的にどのような業が現れるかということは、人、それぞれの場合で異なることですので、個別の事象を普遍的なこととして理解することは出来ませんが、しかし、どのような場合においても確かなこととして言えることは、不条理と思われる災厄においても尚、「神はわれらと共にいて下さる。」ということです。

ヨブは究極の不条理に置かれた時、なおかつ彼は「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と語り、生きる。しかし「ただ生きる」のではなく、「神と共に生きる道」を自覚的に保持致しました。

そんな生き方、それはペンテコステ以後の教会、イエス・キリストという救いの根拠を与えられている今日においても尚、私達の生きる信仰の告白として聞く。そして私達もその道を生きるものでありたいと願うものです。